藩御普請によって成就したため池は、当初、その利用も藩の管理下におかれていました。仙石氏時代の山田池は、慶安3年(1650年)の大改修後、舞田・中野・本郷・五加・小島・十人 (じゅうにん)の各村と池元村である山田・八木沢村の八か村が利用しましたが、各村々が山田池の水配分を受けるには藩役所 へ出願し、藩役人から山田村・八木沢村庄屋を介して、「七月廿日朝より廿七日朝迄昼夜六日」といった配水日時を限定した通水切手が発行されていました。

しかし、仙石氏時代でも、元禄年間に増築された来光寺池・舌喰池(したくいけ)の水配分は、通水切手によらず、番水制を採用していました。来光寺池では鈴子・石神・下之郷村は一昼夜、平井寺村は昼一日の割合で配分され、舌喰池(したくいけ)では手塚村が六日、新町・十人・舞田・中野・五加・本郷各村が三日の割合で配水されていました。

藩役所の直接管理からしだいに用水組合村々の自治的管理・配水へと移行し、松平氏のもとでいっそう進展していきました。山田池では、文政12年(1829年)の八か村組合規定により、山田・八木沢各二分五里、舞田一分、五加・小島・中野・本郷・十人の5か村で四分の分水とし、通水は山田・八木沢・舞田へ六昼夜、そのほかの村々へ四昼夜の割合の番水とする方式を確立していきました。

文政12年の八か村組合規定を現在の表示に置き換えると以下のとおり

地域配分量
山田村25%
八木沢村25%
舞田村10%
五加・小島・中野・本郷・十人の5か村50%